鳳儀山 聖護寺(ほうぎさん しょうごじ)
極楽寺住職の林秀峰が、監寺(かんす)として兼務している寺です。
(監寺とは、住持に代わって寺務の監督,衆僧の統率に当たる役。)
住所:熊本県菊池市 班蛇口2047
住職:愛媛県新居浜市専門僧堂 瑞応寺住職 楢崎 通元老師 元永平寺後堂の兼務寺。
聖護寺は、延元元年(1338)に菊池第13代菊池武重公が大智禅師を招いて建立、開山。菊池一族の精神のよりどころとなっていました。その後600年くらいの間、なくなっていた時期もありましたが、復興された現在、国際禅道場などがあり、国内外よりの多く僧が修行されています。宝篋印塔(ほうきょういんとう)、仏足石などがあり、聖地にふさわしく菊池市北部鳳来地区の山中にあります。(菊池市ホームページより)
菊池市の北部、鳳来(ほ う ぎ)集落から約2km奥まった山に聖護寺跡がある。
この寺については、玉名の広福寺文書のなかに、延元3年(1338)13代菊池武重の「寄進シ奉ル・・・・・・聖護寺ノ敷地ノ事」「鳳儀山ノ境ノ事」があり菊池氏の庇護が厚かったことがうかがえる。
寺院は12代菊池武時に招かれた大智禅師により建立された。大智は宇土郡長崎村(現宇城市不知火町)に生まれて、川尻の大慈禅寺に入り、後に永光寺(石川県)で修行し、やがて元に渡り学んだ禅僧で、永平寺(福島県)第6代の正嫡となる。禅師は13代武重、14代武士や菊池一族の人々の教導にあたり、菊池の精神文化の育成に貢献した。
聖護寺は禅師が玉名に移ると、その後数十代続く。寺内の古塔群から明応6年(1497)「当寺九世令峻」との僧名が認められる。
大智禅師の遺徳を慕い、村上素道師が昭和17年頃入山し、再興に尽力した。
(菊池市ホームページより)
<空撮>
石段と鐘楼堂(しょうろうどう)
苔のある石段が、山中のたたずまいを醸しだしています。
仏足石
吉峯路入鳳山塢
鳳儀山聖護寺縁起
鳳儀山聖護寺の歴史は、今を去る六百七十年前、南北朝時代初期に遡る。
開山は、永年道元禅師より六代の嫡孫大智禅師である。開基は、この時期九州きっての豪族武士団であった、菊池一族第十三代武重公である。
大智禅師は、武重の父 武時公の時より篤い帰依を受け、玉名に廣福寺を開かれ、一族の禅導教化にあたられたが、この間にも正伝の佛法である禅を行じるにふさわしい深山禅寂の地に道場を開くことを希望された。
この志願を受けた武重公が、延元三年(一三三八)大智禅師に寄進したのが聖護寺である。おそらくここ聖護寺では、明日の命をも知れぬ戦乱激動の中、武士と修行僧とが、正に生死を決すべく禅修行に専念したことであろう。
反乱策謀渦まく南北朝期、一族の在亡をも省みず、一切私利私欲に走らず、南朝方の急先鋒として、終始一貫戦い抜いた菊池一族の不撓不屈の精神は他に類を見ないもので、まさに禅に培われたものといえる。
大智禅師二十年の鳳山山居の間、一族の諸将より寄せられた数々の『起請文』には、大智禅師に対する帰依尊崇の思いと、佛法を土台に据えた素晴らしい国が誕生していたのではないだろうか。
廃寺と化して五百年、禅師の遺徳の顕影に命を懸け、昭和十七年、村上素道老師が徒手空挙で入山された。
古蹟復興への必死の努力は筆舌に尽くし難く、本堂・庫裏・茶室・文庫・鍾楼の建立、さらにご著述にとご尽力、昭和三十九年暮、九十歳でご遷化(せんげ)、中興開山と諡(おくりな)された。
素道老師の法嗣として素田老師は、福岡農士学校の教授から転身、その遺志を継承貫徹され、本堂の大修理、奈良薬師寺と同形の仏足石の勧請、さらに宝篋印塔(ほうきょういんとう)の建立を成し遂げ、昭和四十八年十二月暮、五十八歳で突然ご遷化された。
この後、伊予瑞應寺専門僧堂の楢崎一光老師が引き継がれ、禅を求める世界の人々の為に、鳳山道場を開単された。以来海外からの参禅の有志が毎年夏招集に応じ、雲衲衆と共に安居を修行している。この最中、一光老師は大本山永平寺副貫首に就任、祖風を宣揚されていたが、平成八年、七十九歳でご遷化された。
その後を楢埼通元老師が受け継がれ、開単十周年には「鎮守之杜」を整備され、鳳山の興隆に勤められている。
一方、鳳山道場は地域住民の為の研修禅堂でもあり、坐禅会、各種研修や地元青少年育成の場としても広く活用され、護持会も協力する春・秋の法要では地元鳳来婦人部手作りの料理も頂ける。
現在、菊池市内には墨染衣で托鉢する修行僧の姿が一つの風景となっている。
古の心を今に守り続け、悠久静寂の風光そのままを大切に、今なお電気・ガスのない生活を固持して、自然と共に息吹く聖護寺がある。